昭和52年6月30日 大祈願祭
(テレビのはこっち入れんで良いんだろうか?テレビのはいらんの、これだけでええ…)
神乍らな大祓いの信心に合わせて、悪疫予防又、交通安全祈願の大祈願祭を、只今とどこうりなく、終わらせて頂きました。おかげで一年間大した病気もせず、又交通事故にも会わず、おかげを頂いたと言う事は、もう大変な神様のお働きを、お互い受けておるわけでございます。その神様のおかげに対しまして、お礼を申し上げると同時に、今年も又どうぞよろしくというのが、まぁ今日のお祭りでございます。
今日大幣行事がございます。皆さんをこう大祓いをなさる。車を祓わせて貰うという。私その御祈念をさせて頂いておりましたら、あの大幣のあの垂です、紙がねずっとこんな風に切ってございます。それがずうっと、もう何処まで続くやら分からんように、そのこういうならば、はぁあれが神風というのであろう、と思わせて頂きました。いうならば合楽教会にご縁を頂いて、今日のお祭りを頂いておる人は勿論のこと。縁に繋がって遠隔地のため、又色々な事情の為にお参りが出来ない。
それで祓えつもの、交通安全の祈願札をこちらへ、出させてもろうてお祓いを受けておる、合楽理念のある限りの人達の上に、あの神風があの届いておる様子ではなかったろうかと私は思います。ですからその位に矢張り何と申しますか、先程若先生の話を聞きよったら、気を入れてお祓い祓いましたといっておる。確かに先生が気をいれとるなと思わせてもらいます。
そこで思うのですけれども、例えば扇風機の風でも矢張り神風です。そよりと吹くその風にいやもう、私共一吸い一吸いのいうならば空気も、矢張り神風であります。所がね確かにそうなのですけれども、このお祓いを受ける時に起こる所の神風は、これは特別のものなのです。いうなら神風の中の又神風と言う事になると思うんです。だからおかげでそのおかげを受けておるものが、事故にも会わない病気もしないというなら、そういう働きが起こって来るんだと思うです。
これは私がまだ信者時代に鳥栖の教会ででした。信徒会の時に善導寺の総代であります、岸先生がお話しをなさいました。例えば御神米を頂くおけんざき様を頂く。けれどもここにあるいうなら散り紙一枚でも、矢張りおけんざき様と同じだ。中に入っておるお米も、私共が日常頂いておる、ご飯も御神米も同じだというお話しをなさいました。金光教の信心は、もう須らくそう言う所が分かって行く事なんです。神様の前に供えたお水だけが、御神水ではない。
水道をひねって出てくる、その水そのものも矢張りご神水だと言う訳であります。ね。で私がその後に立ってから又話したんです。今岸先生があぁ言われたが、確かに散り紙一枚でもおけんざき様と思うて、大事にしなければならない。おけんざき様は大事にするけれども、御神米は大事にするけれども、お家の炊事場ではお米が、お米がお粗末になって居る様な事では出来ない。
御神米と思うて大事にしなければならない、そう所ではないけれども。なら御神紙おけんざき様と、お米は普通の散り紙又は普通の一粒の米とは、又違うと言う事を話したんです。確かに私共信心させて頂くものは、散り紙一枚でもなら御神紙のような思いで頂くおかげが頂けれるようになったら、もう本当に一人前の私は信者だと思うです。お米一粒でも、本当に御神米の中に入っておる、あの御神米と思うて、おし頂けれるようになったら、本当に金光様の御信者だと私は思うです。
けれどもねならおけんざき様というならば散り紙とは違うんです。今日私が皆さんにいおうとしておる所はそれなんです。そよっと吹く風も矢張り神風。扇風機の風も矢張り神風として合掌して受けると言う事は、これは金光様の御信心を頂いておるものとして、当然の事なんです「信心はせんでもおかげはやってある」というおかげなんですから。私共が一吸い一吸いの空気も、ならその風にいうなら涼しい風を、まぁ受けると言う事もね。だから矢張り御神徳の中にあって有り難いというお礼の心が出て来るのです。
お水でも一掬いのお水でも矢張り、おし頂いて頂く心が生まれて来る。信心はせぬでもおかげはやっている。けれどもそれは信心を頂かなければ、いうならばお祓いを受けなければ、頂けない神風というのは、私は今日の大祓い式いわゆる今日の祈願祭に打ち振る所の、いうならあの四手のさやぎのさやさやに、私共の生命の上にね、心は無いにしましても、自動車一台一台の上に、そういう働きがあると言う事を、信じなければいけません。だから、おかげを頂くのです。
私は今日の祈願祭の後に、皆さんにお話しを聞いて頂く。これはもう私の務めだからというものではなくて、私も助かり、皆さんも助かって下さる事の為に、一言でもいうならば、聞いて下さる。それを例えば親先生の話しというのではなくて、神語りだとして皆さんが頂いて下さる事によって、おかげが頂けて来るのです。あれは親先生の話しというのでは、矢張り親先生の話しになってしまいます。そこで私も矢張り責任があります。責任を感じます。
そこで今日はどう言う事を、芯にしてお話しをさせてもらおうかと、今御祈念をさせて頂く時に、神様にお願いをさせて頂きましたら、こうやってね親指を立てておる所を頂きました。だから私はその次の瞬間に、ははぁこれは親を立てると言う事だなぁと思わせて貰いました。親の顔を立てるというでしょう。どう言う様な事になれば、親の顔を立てれる事になるか。
親が例えば立てないで、こうやって親をこうしとる。ならこれで握ろうと思うても大したことは握られませんよね。けども親を立てておくとね、何時でもこうやって掴めるんです。だから親を立てておかなければいけない。これを今日は今日の芯に、まぁこれだけでも皆さん良いわけです。だからなら親を立てると言う事は、どう言う事かと言う事を、まぁ聞いて頂きたいと思います。
今朝からの御理解に…。今日の御理解を、まぁ頂いた後にです、ある方がこういうお届けをなさいました。先日から金光様のご信心、中でも合楽にご神縁を頂いておる人は、その、あなたにとって合楽の教会、合楽の親先生とはなにか。あなたにとって、金光教とは何か。と問われた時にどう答えるかという御理解を頂きました。だからおかげを頂くということが、合楽教会という人もありましょう。段々熱心になってまいりますとね、合楽の信心、いわば合楽は私の命だという風に頂く人もございましょう。
いやもう生命以上だと言う事を言う人もありましょう。そこでその御理解を頂いた時に、果たして自分はどうであろうかと思うてみた。確かにもう合楽にいわば帰依しきって、それこそ合楽は、私にとって生命だと思うほどにある。そこで初めて自分で自分の信心を問うてみてね、親先生がね今あなたの所の夫婦を、別れをして合楽に愈々没頭せよといわれたら、果たして自分はどうであろうかと。
いうならば最愛の主人とでも別れろといわれたら、果たして別れられるだろうか、と思うてみたら、途端に別れられると心に答えが出た。もう感動したんですね、自分の信心というものは、本当に仲が悪いかなんかならいっちょ、すきを見てからはよ別れるちいうとこもあるけれどもね、そうではないもうそれこそ仲の良いご夫婦です。その主人ともし親先生が別れて、いうならば合楽に修行にこいとでもいわれたら、自分はどうするだろうかと自分の心に問うてみたら、別れられると思うた。
それが感動これは神様の私は感動ではないかと思うですね。神様がそこまでもそれこそ、女系図ではないですけれども、ね、師匠が弟子に主税にむかって、お蔦と別れろとこういう。けれども最愛の家内と別れる事は忍びないけれども、師匠が言う事だから、御恩になった師匠が言う事であるから、これはどうしても別れなきゃならんから、別れてくれというのですけれどもお蔦は申します。
私にあなたと今別れろというなら、死んでくれと何故いいなさらんかというわけです。ほどに、私とあなたの仲はそんなものではない、とまぁなげきます。時に主税が申します事は、私とても同じなんだけれども、私の生命とお前の生命を、二つを重ねて奉げてもまだ足りない人がいうのだからというんです。その方はその事を昨日いわれました。私と親先生という仲は、そういうものだ。
だから最愛の例えば主人と、ならば別れろと、親先生が仰るなら、心の中にはっきりと別れられると、初めてあなたにとって合楽とは、あなたにとって親先生とはどう言う事かと、どういうものかと問い自問自答してみた。そしたらはっきり別れられると決心がついた。もうどうにもこうにも出来ん感動が湧いてきた。そしてその次にはもう主人が可愛そうで、可愛そうでたまらなくて涙が流れたといっております。
私も愛されておる又自分も愛しておる。けれども親先生が別れれろと仰るから、別れられる腹が出来た。途端にです感動が湧いてから、それは神様の喜びであったろう。その次の瞬間にはその主人が、もう可愛そうで可愛そうでたまらなくなった。どうかして主人が喜ぶように、主人の心にそれこそ先程の若先生じゃないけれども、本気で気を入れて主人に奉仕させてもらおう。
とにかく親先生が別れろといいなさるまでを、本気でねいうならば、務めさせて頂こうとおもうたら今までかつて、感じた事のないような、何か知らん有り難いものが湧いてきた。今日は主人が非常に麺類がお好きだそうです、だからおそうめんを湯がかせて頂くが、あれはもう湯がいた直ぐ後が、大変美味しいから会社の方へ電話をかけて、何時にそちらを発たれますかち言うたら、何時に発つとこう言う事であった。
それでその時間に丁度、都合のよいような時間におそうめんを湯がいて待っておられた。そこに主人が帰って来た。冷やしておるそうめんを頂いて、今日のそうめんな格別美味しかというて喜ばれた。もうそれこそ有難涙がこぼれたというのです。神様のためなら親先生のためなら、命もというて神様がなら、生命をくれとは仰らんのです。親先生が別れると仰るなら、どんなに辛い事があっても別れる、と例えばいうてなら親先生が別れろとは仰らんのです。
高橋さんの所の近所に、大丸という大きな家具店があります。大変有名なご信心をなさる、甘木のご信者。月に2回ずつお礼参拝を、ご本部になさいます。勿論甘木教会にはお日参りだそうでございます。大変におかげを頂いて、「出光サツオ」さんですかね、の従弟になられる方です。その方が何時もいうておられる事はです、親先生のおかげでこれだけの財産が出来たのであるから。何時でも親先生がいると仰るならば、もう何時もこの家倉財産にのしをつけております。のしをかけておりますと言われるのです。
所が親先生はいっこうに、さぁいくら持ってこいとも、何をお供えせえとも決して仰らん。問題はその腹なんです。親の顔を立てるというても、親先生の顔を立てるというてもです、そこまで私の信心がです、あなたにとっては合楽教会とは、と問われた時にそれこそ私の命です。いや私の命以上です。という腹が決まるほどしの信心が出来た時に、初めて、親の顔を立てると言う事になるのじゃないでしょうか。親の顔を何時もこう、立てておるから、何時でもね、おかげが頂けれる状態にあるわけなんです。
所が親はこうやって、何時もこき寝せとる。親の顔を立てるてんなんてんちゅう事はせん。だから掴もうというたっちゃ、これだけでしか掴まれん。おかげは頂いておっても、これだけの事だと言う事なんだ。信心も段々と本当に段階があるものだと思います。昨日、一昨日は昨日が敬親会。一昨日が竹葉会。まぁ十年前に両方とも発足しました会です。竹葉会というのは、その当時若い嫁さん達の会でしたけれども、今頃はもう中嫁さんになっておられます。
始まった花の頃、二月三月というものはです、もうほとんどの人が姑親の、いうなら悪口というのではないですけれども、姑親がこんなにひどいけれども、自分はそこでじっと辛抱しとる。と涙ながらに話すのがおちでした。敬親会というと六十五歳以上の老人ばっかりなんですけれども、これが又同じでした。もう皆がそれこそもう家の嫁が、家の養子がいうならば粗末に扱う、大事にしてくれないと言う様な意味のこと。それでも長年信心しとるけん、こらえとると言った様な事でした。
それが段々二月経ち、三月経ちするうちにです、もうそれこそね段々御理解を頂いて、それこそ嫁が悪いとじゃなかった。姑が悪いとではなかったと言う様な、そしてその気になったら途端に、おかげを頂き出しておる。昨日一昨日の、竹葉会に初めて参って来た、婦人がございました。丁度年配もそうですから、一緒に入って貰いました。皆さんとてもよい発表が出来ました。中にその方が発表しております。
先日も一生懸命働く嫁さんです。それである物売りの人がやって来て、そのお婆ちゃんと話しよんなさる。もうお宅の嫁さんばっかりは、何時来てもよう働きなさるち。本当に感心なこっちゃあるというて、その誉めておられた。所がお母さんがどう言われるかというと、はぁありゃ手がなかけんでていち言わしゃった。今手がなかけんで働きござると。手があるなら働きはさっしゃらんがなあの人はち。とまぁ言わんばかの事を、横を通りながら聞かせて頂いた時に、途端に悲しくなったというのです。
それこそその事を涙ながらに発表しておりました。家のお母さんはこんな人だけれども、私は信心で辛抱しておりますという、まぁいうならいう。所がね初めて参って来た方なんです。だからはぁ本当に、十年前の竹葉会の時には、皆がこんな状態だったがなと思うて、十年経った今日はです、とにかくお婆ちゃんが悪いとじゃなかった。私の中にそれがあった事に気付いて、その気になりゃもう途端にお婆ちゃんが手のひらを反す様に変わってくる中にあって。
いうならば嫁はおばあちゃんの事を誉め、お婆ちゃんはもう本当に家の嫁御にはもう出来すぎとると言う様なお話しばっかりで、その明くる日のあの敬親会なんかには、もう一人ひとりの体験を聞きましたが、もう本当に感動するばかりでした。稲員の高山さんが発表しておられました。私は二十いわゆる七、八年前まだ椛目で親先生が、人がどんどん助かりだしたという時に、息子が粟粒結核で医者から見放される事になった。その時に初めて聞かせて頂いて、椛目のお広前にお引き寄せ頂いたら。
高山さんあんたん所の娘がそういう、でもね上滝さんという人がこういうおかげを頂いておる。そのためにはこれからね、例えば一本のマッチにでもお礼を言いなさい。それをすって捨てる時でも、そのいうならすりがらのマッチの棒にでも、有り難うございますという気になれば、おかげになると言う事を聞きましたが、爾来私はもうマッチ一本にでも、いやすって捨てなければならに、それにでももう一時が万時に、それを実行させて頂いておりますが、もう本当に毎日毎日が極楽でございます。
今日もこちらへ、段々敬親会というと、近所の年よりの方が私も連れて行ってくれ、私も連れて行ってくれと。以前は学校の、校長先生までしておられた、先生までもが一緒に連れていってくれ、と言われるようになって、そして稲員から善導寺のバスの停留場まで、一里まぁ以上ありましょうか。そこを歩いてもう朝からもう、そしてずっと自分がおかげを頂いて来た何十年の話をさせて頂いたら、何時の間にか着いたじゃら、でこれから先なら帰りがけに又話しましょうというて帰りました。
朝から嫁が言うてくれます。今日は家のおばあちゃんが極楽行きをさっしゃる日じゃけんで、さぁ誰でん皆というて、私のことを色々にかぼうたり、又は色々準備をしてくれたりいたしまして、今日はお引き寄せを頂いた。今日はお婆ちゃん、うちのお婆ちゃんが極楽行きをさっしゃる日だからと、嫁が言うてくれますという話です。そういう話しがこの頃、ならお年よりの中にも聞かれるようになり、同時に竹葉会の方達でも、始めは今申しましたような話し、ほとんどばっかりでしたけれども。
それがお婆ちゃんじゃなかった。自分であった。本当にお婆ちゃんが冷たくあたられる、冷たく当たられる内容は、こちらにあったんだと気付かせて頂いたら、帰ったらお婆ちゃんがもう変わってござると言う様な、必ずおかげになるんです。芯からそこまで心を入れて、それこそ気を入れて親に当たるからです。気を入れて嫁にあたるからです。そういう皆さんが発表された。その後に一番最後に、会長さんが発表しておりました。秋永先生の奥さんです。いうならば信心は私のために命だ。
いや生命以上だと大事に思うておる。いうならば神様の前に、何時でも生命が奉げられると言う様に、私共が思いましても、神様がお前のような生命はいらん、と仰ったらどうするかというのです。汚れには汚れたね、乱れに乱れておる自分の信心を、神様がお前のような乱れておるものは、お前のように汚れた者は、お前がもろうてくれっちいうたっちゃ俺はもらわんち、言いなさるならどするか、という発表をされましてから、本当に私は思わず拍手いたしました。
そうじゃ。そこでねそんなら私の命です、生命でもささげられるというほどしの、心が出た時に、神様がそれを受けて下さるほどしの、私になるためには、ならどういう信心になったらよいかと言う事が今朝の御理解でした。そして結論して結局、親の言う事を聞く、と言う事で御座いました。これも昨日の御理解の中に、親の言う事を聞くと言う事は、お道の信心は、ね、道徳的でもなからなければ修養的でもない。
道徳、修養それをもういっちょ越えたものである。ですから始めの間は、何か分からん。常識を外れておるような思い方を、するような場合も、いやでなからなければいけない場合もあります。はぁもうどうした非常識な事じゃろうかと、けれども信心させて頂くものは、いうなら常識以上のいうならば、いわゆる超常識と私はもうします。超道徳と申します。だからこそ超がつくようなおかげが頂かれるんです。これも竹葉会で、秋永文男先生の家内が発表しておりました。
この頃から丁度文男先生が京都にいっとります間に、強盗が入りました。私は昨日その時に初めて聞かせて頂きました、そこん所聞かせて、明くる日直ぐお礼に出て来ました。もう明くる日はもう興奮してから、はぁあれはそうですよね、出刃包丁突き付けられてから、あんたあぁしたっちゃけん。それがもう何時も欠かした事のない大祓い信行を欠かしておった。もうそれもちょとうたたねして、あのすぐ起きてする筈じゃった所が、いわば寝過ごしてしもうとる、ちょっと目を覚ましたら、もう4時あった。
はぁしもうたっと思うて、起きようと思ったったと上に出刃包丁がこげんしちゃるのが一緒じゃった。もうそれこそもうびっくりして、もうどげんしてそん泥棒が次の部屋まで押しやっていったか自分で覚えん。そして次の部屋で又はっとする、腰がぬけっしもうた。それでビックリしてから、そのまぁ泥棒は逃げたというわけですけれどもね。そりゃやっぱ明くる日までぐらい、興奮が続くはずですよ。
それけん私は申しました。ならあんたがね、成程大祓い信行を忘れておったけれども、はぁ大祓い信行をかかしちゃならん、とその起きた所と、泥棒が来たのが一緒やった所が、何とんいえん神様の働きを受け取ったばいというて、私はもうしました。それこそ泥棒から起こされてですよ、こらこらといわれてから、目が覚めたらそれこそどげなことになっとったじゃら分らん。もうおてとったんもう。そこへその泥棒がその出刃包丁をここへ、付きつけとったとこういう。
その辺の所が何ともいえん事です。そして実は今朝からこういうお知らせを頂きましたというのです。文男先生が自動車事故を起しとる。しかもその相手の方が死んでござる。それで、その先方の今日はお通夜だから、御悔やみにいかなきゃならん。それけんお参りも行こう、夫婦で行こうと言う事になった。所が文男先生が、そのもうニコニコとなんか、有り難い所に行くごとしてニコニコ笑いよる。
それで本当にいうならばです、しら涙でん流してからでん、それこそあのいかにゃならんとに、あんたごつしてそげにニコニコして笑いなさるなら私はついちゃこんちいう。
そげなこつがあるもんか、こげなおかげはなかぞと。私もそういう事故を起こしたということによって、一段と信心が進むならです。向こうの今度はなくなった御霊様も、私が、いうならひき殺したと言う事が、どの位これから御霊ながらの働き、おかげになるか分からないぞと。
こげな有り難いことがあるもんかというて、夫婦が口争いをしながら、そのこう道を歩いていきよった。ところがちょうどその道が二道にこう分かれておる。片一方の道には合楽行きと書いてある。片一方の道には常識行きち書いちゃる。常識と申しましょう。それでその良江さんが発表の時に、だから私が主人の言う事を、言う事を何時も聞きませんから。素直でないから。いうなら私が常識もんですから、神様がこういう風にいうて下さったんでしょう。
やっぱり主人と一緒に合楽の方へ曲らなければいけなかったんでしょう、という発表を致します。もうこれは金光、いうなら合楽の信心の、もういうなら神髄です。先日これもでしたか、どこかで共励会があった時に、こっからいっとる先生が、文男先生合楽理念について語って下さいとこういうた。そしたら文男さんが言う事がです、私はねこう言う事が合楽理念です、これこれがというて箇条書きに覚えてもおらんし、話しもきらんけれども私のいうておる事、おこのうておる事がそのまま私は合楽理念だと。
これが断言出来ると言う事は素晴らしいです。それこそそういう事故に合いながらも、こんな有り難い事があるかと。これはこっちだけではない亡くなった御霊様も、私との関わりあいが出来た事によって、助かられるんだぞと。佐田さんの所の、いうならあの倉庫が丸焼けした時に、お届けに出て見えてから、先生もう今日はおかげ頂いて、と言うてえらい言われなさるから、よっぽど愉快な事があったかと思うたら、倉庫が丸焼けじゃった。だから分からないでしょが。
信心の境地というものはね、そこまで到達した者んじゃならにゃ分からんです。それにはねただ常識的な道徳的な、又は修養ぐらいな事では、お道の信心は分からないと言う事であります。だから場合には人から笑われる様な事もありましょうけれども、これは私の信心ですけれども、例えよし人が笑うても、神様に笑われる様な事があってはならんというのが、私の信条でありました。
今朝からも皆さんに申しましたが、もし私の信心によってです、ここに家倉財産があるとするならば、私が神様との間にどう言う事を私に神様が言われても、私がはいの一字で、受けきった事が、いうならだからそのはいの中から、この家倉財産というものは生まれて来たんだといっております。今合楽で日々の奇跡的なおかげの連続と言われる。ついこの頃布教に出ました、末永先生の所から、もう十通ぐらい手紙が参りましたでしょう。まだ50日しかなりません。
昨日一昨日参りました、手紙にはね最近大変おかげを頂いて、中学校の校長をしておられる方達ご夫妻が、熱心にお参りになる。そして沢山の人、沢山な人を導いてと書いてありましたが、その先生がどうでも、先生あなたがブラジル語を覚えて下さいと。もうお参りしても、その言葉が通じんから参られんという人も大分おります。だからどうでもブラジル語を覚えて下さい、私共夫婦が移り変わりあの毎日その僕がその、ブラジル語を教えにきますとこういう。
しかしいくら言葉が通じなくてもね、もう神様が助けて下さるんだから、という気持ちでしたから、習う気はございませんでしたけれども、その翌々日お夢を頂いた。それは竹内正教先生が、もうそれこそ愉快に楽しそうに、語学の勉強をしておる所をお夢に頂いて、こりゃやっぱり勉強をしにゃいけんと思うて、それこそ身を入れて勉強をさせて頂くようになりましたら、少しずつ片言にでも話せるようになる事が、楽しゅうなりました、というております。
そういう働きが起こっているんです。しかも向こうからその教科書は持って見える。幼稚園の本とか小学校の本を、最近宗教法人のあちらでは大変難しいそうなんです。でその事の問題がおきれおればです、そのその事に詳しいあちらの弁護士さんが、お引き寄せ頂いておかげを頂いていおる。今毎日朝参りに日参をしてくる家族がありますが、PL教で十年間お参りしたけれども、おかげを頂けなかった。
そのいうならノイローゼのお父さんです。もうそれがもうそれこそ( ? )でも( ? )ならん程に、まぁやかましいのでしょう。それがあの今度あちらで仕えました大祭の時に初めてお参りをして以来、その翌日からもうころっとおとなしゅうなった。それでもう家族中で朝参りをしてきよるち。先日からこれもね日本から渡る時にそれこそ大きな夢を持って渡った。そしてあらゆる事業に手を出したけれども、もう皆が失敗であった。もうどうにも出来ないというのに、かてて加えて目が見えなくなって来た。
そこにならまぁいうならばね、ビリグイの教ビリグイと言う所に、それこそ生神様のごたる先生がきてござるげな、金光様が出来らっしゃったげな、という評判を聞いてでしょう。その方が見えた。そして合楽理念を聞かれた途端にです、もうあらゆる宗教を渡っておりますもんですからね、私の探しておった求めておった信心はこれだというて、その今合楽理念の研究に掛っておられると言う事です。
所が不思議な事にね、その目が段々段々薄紙を剥ぐように、はっきり見えて来たというのが、昨日一昨日の手紙に、今申しました様な事が書いてございます。凄まじいでしょう。金光様のご信心はそういう働き、なら末永先生がここで十年間勿論夫婦で修行させてもらいました。そしていうならば親の顔を立て続け、立て抜いていったと言う事で御座います。もう二言目には親先生であります。それこそ親先生の言う事には、泣く泣くでも矢張り、辛抱しぬいたと言う事で御座います。
親を立てると言う事「氏子信心しておかげを受けてくれよ」と。私共がおかげを受けると言う事。それも本当のおかげを受けると言う事。それはそのまま神様の顔を立てると言う事になります。私が教祖金光大神様のみ教えを行じて、私はこれは何時も断言して申します事は、教祖様は決して嘘は仰っていないんだと。あのみ教えの全てが本当なんだと。ですから、それがこのようにも本当であると言う事を実証して行く。
そういうおかげの証を立てて行くと言う所に、金光大神の顔を立てると言う事になるのじゃないでしょうか。教祖様があげん仰ってござるばってん、やっぱそげなわけにはいかんという時には、教祖様の顔は丸つぶれですばい。そこでですそんならば、末永先生はそれこそ師匠の顔を立てると言う事がです、今日のあのビリグイでの御比礼のもとであるという風に私は思います。
そこでね私共がいかに、神様の前なら生命も惜しくないと、例えばいうてもお前のような生命はいらんと。神様が仰せられる。はぁ汚れておる乱れておると言う事は、もう限りがないです、私共の場合は見れば見るほどそうなんです。けれどもね親の言う事を聞くと言う事においてはもう人後におちない。誰にも負けないと言う様な信心が素直に行じられ、出来るとするならばです、いうならば顔を立てる事になります。
さぁ明日からは夏期信行が始まる。末永先生が手紙に書いとります。合楽名物の信行が7月1日から始まります。私の方は丁度寒中でございますから、7月1日から寒中修行に入ります。丁度今あちらは寒中だそうです。いった時が丁度柿がなって秋の頃でした。50日経ったから、もう今は寒中修行を7月1日から、合楽の修行に合わせてさせて頂く。大祓い式もやっぱりささやかながら、大祓い悪疫予防と、交通安全祈願祭を仕えさせてもらいますから、どうぞよろしゅうと書いてありました。
もうもうそっちに行ったなら、そっちのよかごとせんのと。そちらにそちらのやっぱあれもあろうから流儀もあろうから。けれども親先生がいうておる事、しておる事はやっぱ真似方でもせにゃおられんと言う所にです、末永先生の信心があったと、私は思うんです。誰が何と言うても、それをいうならば貫き、貫き通すと言う事。秋永先生の奥さんがいっておるように、ね、私共が本当に親私共の命ですと、例えばいうてもお前のような、言う事を聞かん者んないかんちいわっしゃたらそれぎりです。
言う事を聞く事がまず先決。親の顔を立てると言う事が、まず先決だと言う事になります。そしてなら皆さんが、なら生命をそういう風にささげる。先生が夫婦別れをせろと仰るならば本当に別れられる、と答えが出た途端に次の瞬間には、何時この主人と別れなければならんか分からんから、それまででも大事にしなければおられない、という心が湧いてきたら、それこそ有難涙が流れてきた。
そして今までとは違った気をいれた、主人に対する奉仕が出来るようになった。そういう仲良うなって行くのを、神様がどうして別れろといいなさる筈がない。問題はその腹を作ると言う事なんです信心とは。だから修行でもしよらなければ、そういう腹は定まらないと言う事で御座います。一生懸命の信心が出来ておる時にはです、暑い時でも暑さを感じません。寒い時でもそれこそ、体に汗なすような働きが出来ます。そこに初めて冬というものは、決して寒いものではない。
夏は暑いものではない。こんなに有り難い極楽があるんだと言う事になるのです。そういう信心をです愈々身に付け。例えば今日の大祓い式において、おかげを受けると言う事は、そのお祓いをさせて貰う、あのしでのさやぎがさやさやに、それこそ津々浦々、合楽に縁のある限りの所まで、神風が届いておると私は確信致します。だからそういう神風を受けての信心から、いや信心と同時に、私共が親の顔を立てるという生き方の信心とが合まって、本当の金光教の信心が生まれてくる。
いわば生みなす所おかげが頂けて来るという風に思うのでございます。今日の大祓い式を境に、また一段と信心を進めさせてもらい。愈々本気でなら私も腹を決めようというても、修行が出来ておる時でなからなければね、もう修行が出来ておる時にはもう、本当に欲得というものがなくなるんです。そういう意味でです、矢張り修行が大事です。愈々明日から、それこそ合楽名物の夏期信行が行なわれます。
それこそここへ参りますと、もう冷房が入っとるけん却ってそうでもないごたるですけれども、やっぱそれでもうね信行が終わりますと畳が、やっぱ下がこう色が付くぐらいになりますよ。一生懸命汗をかいて、こうね大祓い信行をやりますから。参加した事のない方は、ぜひ参加して下さい。又日頃おかげ頂いておる方も、又一段と信心に工夫をこらして、夏期信行を頂きたいと思います。
どうぞ、よろしくお願い。